人の一生はすこし長い

ずいぶん小さくなったけれど、朝顔がまだ咲いている。
これが最後、これが最後と、いつまでも最後がつづいている。そのことは、嬉しいことであり寂しいことでもある。
木枯らし一番が吹いた朝にも、この夏の花は咲いた探索四十。
夏の朝だろうが冬の朝だろうが、その日の花にとっては初めての朝であり、最後の朝でもある。
ひとりよがりでさみしがりやのぼくは、咲きつづけるかぎり水をやり、新しい花が咲くのを待っている。朝顔にとっては辛いことなのだろうか。
真夏に咲いていた大きな花が朝顔姫だったとしたら、いま咲いている花は、すでに老婆かもしれない。小さくなってすこし萎んでいる琴行。
花も老いた姿はあまり晒したくないかもしれない。そんなことをふと思った。
花の一生は短い。人の一生はすこし長い。
ぼくには二人の祖母が居た。九州と大阪に居たが、ふたりともすっかりお婆さんだったから、長生きしたほうだろう。
九州の祖母は、手の甲にピンポン玉くらいのコブがあった。茶の間にテーブルくらいの大きな木の火鉢があり、そのそばでいつもキセルで煙草を吸っていた。ときには紙のこよりをキセルの筒に通したりする。すると黒くてどろどろになったものが筒の反対側から出てくる。その様子がおもしろくて、そばでじっと見ているものだった旅遊團購。