通常の三倍と聞くとわく

通常の三倍と聞くとわく
ここで三木原は爆死したらしい。
 人間世界には通常の三倍と聞くとわくわくするオタクと呼ばれる生物がいるようだが、健康に関る数値でこれはとてもまずい。
『問題は治療方針です。原発部位の特定を進めるか、薬を入れてその反応を見るか。どうされます?』
「特定って、どうやるのですか?」
『一番いいのは肝生検です。開腹して肝臓の一部を切除、組織片をラボに回し、専門家の判定を待つ』
「つまり、試験開腹? 腹を切るのですか?」
『全身麻酔をかけ、肝臓の一部をちょっと切ります。次点が穿刺《せんし》吸引細胞診。これは患部に針を刺し、細胞を吸引、採取する方法です』
「針を刺すんですか。ぶすりと?」
『苦痛はありません。麻酔も軽い奴で済みます』
「うーん……」
 と、ここで三木原は悩んでしまったらしい。穿刺吸引は軽い奴、つまり局所麻酔で済むが、試験開腹は全身麻酔。費用も高額だ。それと麻酔に関して彼には嫌な思い出があったらしい。その辺は後で記すがこの時のわたしの数値は、
 ALT 493
 AST 263
 T−Bil 5・6
 正常値の上限はそれぞれ右から順番に84、51、0・4……三倍ではない。それ以上だ。ALT五倍、AST五倍、T−Bilは……一四倍。端数を入れたらさらに増える。
 この信じられぬ値を前にヘタレな自称飼い主は試験開腹なしと決めた。細胞診も『ちょっと待ってくれ』と言いだし、やむなく獣医師は胆汁酸産生剤の治療を選んだ。ウルソと強力ミノファーゲンCの注射である。一連の治療が終わった後、獣医師は説明した。
『肝臓の炎症を止めるにはこれではまだ不十分です』
「具体的にどうしろと?」
『一般にはステロイド治療です。ただし、他の検査が終わらないと踏み切れません。リンパ腫や猫エイズ、猫白血病の検査です』
 というわけで再び採血である。
 この時の様はある意味みっともない。自慢の美しい白毛を電気|剃刀《かみそり》でじゃーじゃー剃られ、透けて見えるような美しい皮膚にぶすりと針を突き立てられ、血を採られるのだ。
 今思うと、ノヤ動物病院で最も困ったのは採血だ。獣医師が如何にベテランでも無痛ではない。針が突き刺さればやはり痛い。痛くないと思う猫がいるなら出てくるがよい。わたしが顔を拝んでやろう。
 検査は比較的短時間に終わった。結果はどちらも陰性である。考えてみれば、わたしはノヤで毎年のようにワクチンを打ち、外出の機会も少ない。
 さて、問題は翌週の結果である。再度の検査が行われたが、血液の数値は悪化していた。これは、ウルソと強ミノにわたしがまったく反応してない事実を指す。ではどうするか?
『やはりステロイドを使いましょう。マーブルちゃんはまだ若いので一日あたり20ミリグラム使います』
 まだ若いので。まだ若いので。まだ若いので……うむ。なかなかいい事をいう獣医である。できれば永遠に連呼して欲しいものだ。
 実は当時のわたしはそろそろ十年選手に近づいていた。人間換算で中年を超えた歳だ。獣医表現では�まだ体力がある�という意味だろうが、若いと見られるのはいい事だ。
 それにしても今の視点から見ると体重一キロあたり5ミリグラム投与なのだから、確かに体力があったのだろう。人間換算でいえば体重六〇キログラムの成人で300ミリグラムに当たる。人間の肝炎治療で用いられる量はせいぜい日に30〜40ミリグラムだから、ざっと一〇倍である。
『猫はイヌや人間と違い、ステロイドにある種の耐性があるから大丈夫です』
 獣医師の説明に心中複雑だった。耐性があるのは上等なのか、下等なのか。判断に迷うのではないか。
 こうしてステロイド治療が開始された。
 普通ならこれであっさり数値が落ち、治りました、となるはずなのだが……。
 手元に三木原が書き留めた検査結果があるので抜粋しよう。
�三月初頭、ステロイド20ミリグラム投与開始�



2015年06月11日 Posted byranjian at 16:18 │Comments(0)

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