描くことが大事な

大正・昭和と活躍した俳人の荻原 井泉水(おぎわらせいせんすい)氏は、
越後の出身で、この時、芭蕉が越後から佐渡を見たのであれば、
「横たわっている天の川は見えない」ハズ、と異を唱えている。
彼も俳人。夢を壊すつもりはないだろうが 護士、
事実は伝えなければという思いから語ったことだろう。
これを確かめた人が居る。
夜の星の動きだから、
一晩のうちに横たわって見えるときがあるだろうと思ったりするが、
天の川との関連で言えば、直立するときはあっても
横たわるところはどうしても見えないそうだ。
たしかに、芭蕉の足跡を探ってみると、
一緒に歩んだ曽良の「旅日記」には、
その頃は、雨模様の天気となっている 抗氧化食物。
そうすると芭蕉さん、風景を詠んだものではなく、
心で詠んだ風景ということになる。
事実を描くことが重要か、
たとえフィクションでも、想起されるイメージを描くことが大事なのか?
もちろん、後者であるのは言うまでもない。
今日も灼けつくような一日だった。
ようやく日が落ちて、
夜空に浮かぶ天の川を見ていると 言語治療師、
芭蕉が詠んだ風景が思い浮んでくるように思えた、、。
2014年06月11日 Posted by ranjian at 12:14 │Comments(0) │miesiei
人の一生はすこし長い

ずいぶん小さくなったけれど、朝顔がまだ咲いている。
これが最後、これが最後と、いつまでも最後がつづいている。そのことは、嬉しいことであり寂しいことでもある。
木枯らし一番が吹いた朝にも、この夏の花は咲いた探索四十。
夏の朝だろうが冬の朝だろうが、その日の花にとっては初めての朝であり、最後の朝でもある。
ひとりよがりでさみしがりやのぼくは、咲きつづけるかぎり水をやり、新しい花が咲くのを待っている。朝顔にとっては辛いことなのだろうか。
真夏に咲いていた大きな花が朝顔姫だったとしたら、いま咲いている花は、すでに老婆かもしれない。小さくなってすこし萎んでいる琴行。
花も老いた姿はあまり晒したくないかもしれない。そんなことをふと思った。
花の一生は短い。人の一生はすこし長い。
ぼくには二人の祖母が居た。九州と大阪に居たが、ふたりともすっかりお婆さんだったから、長生きしたほうだろう。
九州の祖母は、手の甲にピンポン玉くらいのコブがあった。茶の間にテーブルくらいの大きな木の火鉢があり、そのそばでいつもキセルで煙草を吸っていた。ときには紙のこよりをキセルの筒に通したりする。すると黒くてどろどろになったものが筒の反対側から出てくる。その様子がおもしろくて、そばでじっと見ているものだった旅遊團購。